全体主義の起源(ハンナ・アーレント)

今回は、現代社会に生きる我々が全体主義について考える意味について考えたい。

 

全体主義totalitarianismとは、ヒトラーナチス政権やソ連スターリン、イタリアのファシストらが主導したイデオロギーであり、個人に対して全体の絶対優位の主張の下で、諸集団を一元的に組み換え、諸個人を全体の目標に総動員する思想であり政治体制である。

 

そして、言うまでもなく、ナチズムやボルシェヴィズムの中で、絶滅収容所や粛清体制をもたらした政治体制である。

 

アレントが本著で強調するのは、全体主義という新奇の出来事は歴史的必然ではなく、人間の選択と行動の結果として起こったものであり、決して起きてはならない出来事であった、ということである。

 

そして彼女は、全体主義強制収容所という形で結晶化した現象の諸要素を、具体的に現れた歴史的文脈の中で分析した。そうして要素を明らかにすることで、将来それらの要素が再び全体主義へと結晶化しようとする時点で、人々に思考と抵抗を促すことができると考えたのだ。

 

我々日本人は強制収容施設とは全く無縁の平穏な日々を送っているので、ホロコースト全体主義について考える必要はないかに思われる。

しかし、一見平和に見える現代社会においてこそ、アレントの議論を検討しなおす必要があると考える。

 

まずこの全体主義の考察において彼女が特に注目したのは、

 

ユダヤ人大量虐殺という目的は、専制の維持という本来の目的から不合理に感じられるにも関わらず、強制収容所などによって高度な技術を用いて合理的な手段を持ってこの達成しようとした、目的の不合理性と手段の合理性のいびつさを解明しようとしたことだ。

 

まず、彼女は全体主義を引き起こした要因として大きく二つ挙げている。一つ目が「反ユダヤ主義」の拡張、二つ目が帝国主義的政治体制、である。

 

元来ナショナリズムは国民という法的身分の同一性に基づく一体化である。しかし、法的領域の構成員が同一民族で占められるようになるにつれて、国民=民族と考えられるようになり、民族という概念が肥大化した。ユダヤ人が社会に溶け込むにつれて、ますますユダヤ人という表象が膨れ上がった。

さらに、ユダヤ資本が国家を動かしているようにも思え国民の間で「反ユダヤ主義」拡大した。

 

 

一方、国家の変質について彼女は言及している。国家は法的権利を保障する静的空間から、無限に拡張する暴力装置へと変化したというのだ。資本主義国家の中核を担うブルジョワにとって、国家は経済成長のための道具であり、軍事力によって海外植民地を獲得する帝国主義をもたらすとした。

 

この人種イデオロギーの肥大化と帝国主義運動が結びつき、虚構のイデオロギーを暴力を持って追求する全体主義を導いたというのだ。

 

そして、全体主義の担い手はどんな人物だったのか。

 

 

ホロコースト世界史上最悪の非人道的な出来事はあくまで人間の選択と行動によって生み出されたものであるという事実を忘れてはならない。そして、もう一つ忘れてはならないのは、全体主義イデオロギーに共鳴したのはただの一般大衆であった、という事実である。

 

すなわち、宗教や権威に守ってもらえず、自分自身で現存在や超人として生きていくことができない大衆たちであり、全体主義の抱える虚構の世界観に魅了され、アイデンティティーを回復するために積極的に運動に参加した市民である。また、彼らは見捨てられた自己の安全を求め、現実世界への他人に対して徹底的に無関心であったという。この虚構イデオロギーへの熱狂と私生活の没入からくる他者への無関心が、彼らをテロルへと導いたのである。

その代表例がアイヒマンである。彼はナチスに積極的に参画する一方で、ユダヤ人迫害を仕事と捉えて、効率的に虐殺する方法を模索した。

アレントは彼を「凡庸の悪」と形容し、徹底的に批判した。

 

 

全体主義とは、虚構のイデオロギーのために破壊という過程にすべてを動員する。

では、どうして人間はこの運動に駆り立てられたのだろうか?

 

アレンㇳはこれに対して、労働、仕事、活動の三つに場合分けして、活動の必要性を説いた。

労働とは生活のために働くことで消費財など一回性のものを作ることである。仕事とは時代を通して受け継がれる価値ある産物を創造すること。

そして活動とは共通世界について複数人で意見を交わしあうことであり、どういう方法でどういう意見を述べるかなど、自らのユニークネスを表現することができるのである。そこで、活動することで、人間を均質化し手段化する資本主義の駆り立てを超えられると彼女は考えた。

古きよきポリスに帰ろう!!ポリスはともに活動し、ともに語り合うことができる人間の組織であり活動を可能にする空間である。

 

私的利益を超えて公共善について討論する活動こそが駆り立てから自由になる方法だとアレントは述べたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

そしてここに全体主義の恐ろしさがある。

アイヒマンという「普通の人」が大量虐殺という巨悪に加担したということである。

 

 

これは我々「普通の人」がいつ巨悪に加担してもおかしくないことを意味しているのではないだろうか?

 

ハイデガーの言うように、我々人間は世界内存在であり、世界の外から世界を鳥瞰することなど幻想でしかない。

それに、テラクレイトスの言うように「万物は流転する」。今この世界で”正しい”とされているモノの見方も時代や状況が異なれば変化するのだ。

そんな世界に生きる我々が、客観的にこの世界を把握し、自らの行動を省みて、その上でよりよい未来に向けて方向性を示し、行動していく。

これがどれほど困難かは想像に容易い。

 

しかし、この現実世界に課題が山積みである以上、我々はそれを解決して行かねばならない。

それはすなわち、様々な知を用いて、現状を改善し続ける努力を続けなければならないことを意味する。

 

決して考えることを放棄して、この世界の傍観者になってはならない。

 

フーコーが言うように、もし現状に不満があるなら、正しい方向、少なくとも自分が正しいと思える方向に働きかけて行くべきだ。それが正しいかもよい方向なのかも分からない。しかし、働きかけること自体に価値があるのだろう。そして、カントの言うように、それこそが自律であり、自由なのだろう。 

 

神が死んで、人間が死んだこの世界に絶対的な真理は存在しない。

最近では多文化、多元主義なんてことも言われている。

こんな世界においては、我々は常に自分の考えを絶対視せず相対化し続け、常に”真理”を探究する姿勢を失ってはいけない。そうした生き方こそが教養人のすべきことであり、未來の社会を担っていく我々若者がすべきことなのではないか。

 

そしてそのために有効となる手段が、読書であり、対話なのだろう。

 

話が少し外れたが、要はアーレントの「凡庸な悪」の議論から私は以上のことを考えた。

二度とこのような事態を招かないためにも、「凡庸な悪」にならないためにも、常に現実世界と向き合い、自分の頭で考え、行動しなければならない。

 

近い将来、AIの台頭や反グローバリゼーションなど、我々は歴史上人類が直面してこなかった「大きな壁」にぶち当たるだろう。

そうした新奇の出来事にぶつかったときに、二度と同じような過ちを起こさないよう、過去から学び、自分の頭で考え、よりよい未来に繋げる姿勢を持ち続けたい。

 

決して「凡庸な悪」になってはならない。

 

アレントの心からの訴えを真摯に受け止め、世界という書物を直接読破したい。