学問芸術論、社会契約論(ルソー)

ロック、スミス、ベンサムらは個人を市場経済において自己の利益を最大化させる経済人と措定し、社会全体の富の増大が個々人の幸福の増大を意味すると考えた。これに対してルソーはフロムの言う「~からの自由」を成しえた近代人は本当に幸せなのかと疑問を呈して、物質的豊かさは我々を幸せにしたのか、そしてそのとき私たちは本当に「自由」なのか問うた。

 

学問芸術論において彼は「学問と芸術の復興は習俗の純化に寄与したか」という設問に対して応答した。

 

これに対して彼は、学問芸術と、人間の実践能力である徳およびその根拠たる習俗は背反するものだと述べた。

 

子供時代からプルタルコスの「英雄伝」に親しんだ彼にとって徳とは共通善を指し、私的な利益に優越するものであった。

そして私的な利益を優先する近代社会を批判し、共通善を追い求めるべきだと主張した。

 

またルソーは文明以前の自然状態における人間は幸せであったとした。その幸福な自然状態は所有という人工的な制度の発生により崩壊したという。

 

所有権が認められたことで、自己利益の追求が正当化されるようになり、人々は公共善を見失う。さらに、自己利益を際限なく拡大したいという欲望のあまり、自己を偽る必要もあり、公共善の放棄によって他社から疎外されるのみならず、同時に本当の自分からも疎外されることになる。

 

ルソーはこの問題を一般意志に従うことで解決しようと試みる。

一般意志は個人の利益を追求する特別意志やその総和である全体意志と峻別される。すなわち、後者の二つは私的な利益の追求を優先するが、前者は共通の利益を求める意志であり、それは法という一般的な規定に現れる。

全員が一般意志に従うことで、全員が「共同の自我、生命、意志」を持つ主権者となり、「我々=私」となる。そして我々の定めた法に従うことになる。

 

こうすることで人間は公共善を私的利益に優先する本来の在り方を回復し、互いに一般意思を共にする主権者として一体化することで、疎外を克服することができると考えた。

 

ルソーのこうした主張は後に大きな議論を呼び起こすことになる。

一つ目は、私的な利益を優先する近代の個人が、共通善を優先するよう要求する社会契約に合意するかという点である。これに対してルソーは、神のごとき立法者の必要性を説いた。

二つ目に、個人の自由より公共善が優先すると説くルソーの社会契約論は、個の埋没をもたらし、共通善の追求のために多様性を犠牲にするという考え方に繋がり、最終的に全体主義を導かないかというものである。

 

そしてこの懸念はフランス革命後のジャコバン独裁によって現実のものとなった。

 

・自由とは何か?

もし自由を積極的自由だと考えた場合、自由とは自立を意味し、欲望を抑制し、理性によって自己実現を図ることを指す。

ある目的や方向性を提示し、その方向に他者を導くことは、他者を支配することになる??

理性を持って自分を統制できる個人が、積極的自由を求める生き方を追求した場合、他者が自分と同じことをするよう求めてきたとしても、道徳的判断を持って自らが正しいと思う選択を行うことができるはずである。