アメリカのデモクラシー(トクヴィル)

個人の自由と権利の実現のために人民主権を目指して始まったフランス革命はどうしてジャコバン恐怖政治に陥ったのか?

ルソーの社会契約論の概念の問題点はどこにあったのか?

 

この時期を代表する自由主義者にコンスタンがいる。彼は古代人の自由と近代人の自由を分けて考えるべきだと主張した。

ルソーは古代ギリシャの政治共同体を理想と考え、私的な利益ではなく公共善を追求するよう人々に求めたが、そうした全人格的参加の自由を古代人の自由とした。しかし、産業化や職業の多様化で自分の仕事を全うせねばならない近代人の自由はそれとは大きくかけ離れたものであり、それは政治権力から個人の権利を保障することを指した。

 

そして、個人の自由は共同体への参加を私的利益の追求より優先するため危険であるとして、政治権力を抑制することで個人は権利を獲得するべきだと主張した。

 

コンスタンの問題意識を継承したのがトクヴィルである。

 

トクヴィルは民主社会のあるべき姿をアメリカに見た。

アメリカにおけるデモクラシーとは、単なる政治体制を指すのではなく、「境遇の平等」という社会的状況を指す。そして、身分制秩序を原則とする貴族政社会はアメリカのように自由で平等な社会へと移り変わると考えた。

 

しかし、彼はアメリカ型のデモクラシーが完全であるとは考えていない。

平等になった人々は、人々の間にあるわずかな差異も認めないことになり、かつてJ・S・ミルが論じたように平等で自由な社会が多様な価値や生き方をもたらすのではなく、むしろ人々自身の手で均質化が進んでしまう。このように一元化した世論はかつてない権威を持つことになり、画一化され少数意見が排除されていくとした。この状況をトクヴィルは「多数者の暴政」と呼び、この状態が中央集権的政治体制と結びつくことが民主主義を破壊するとして、危険視した。

 

そこで、デモクラシーを専制に陥らせず、むしろ自由と両立させる道は残されていないのかを考えた。そのヒントをアメリカに見出した。

 

第一に自治である。アメリカにはニューイングランドを中心にタウンシップという自治の伝統があり、人々は身近な地域の問題から公共の利益を知るようになると考えた。

 

第二に自発的結社である。アメリカにおいて人々はあらゆる目的で自発的結社をつくるとし、ここにヒントを見出そうとした。

 

こうした自発的自治活動が、人々が互いに意見を述べて、話し合いで決定することを可能にし、したがって多数意見に従属しない主体的な個人を形成すると考えた。

 

しかし、境遇の平等化により均質化された個人は、他人が少し自分より優れているとわかると、精神的に傷つき、人と関わることを恐れるようになると彼は言う。そんな個人は「自由のままでありたいという願望」と「指導されたいという欲求」を持ち、両者を一度に満たしてくれる権力の存在を待望することになる。そして選挙によって、国民を管理し幸福を提供する専制権力が選ばれるとした。この専制権力は従来のように恐怖政治によって統治を試みるのではなく、後見的な権力、すなわち「穏和な専制」を目指す。国民は子供が親にすがるように国にすがるようになり、自由は破滅する。

 

ここには、我々人類は歴史の発展過程にあると述べるヘーゲルマルクスと対照的に、我々は歴史を通してマイナスの方向へ向かっていると述べるトクヴィルの思想が垣間見える。

この「穏和な専制」に甘えて自由を失わないようにと、トクヴィルは市民が貴族的であることを求める。ここでいう貴族的とは、血統に関わらず、主体的に考え行動することで、行政国家の言いなりにならず、独立して思考し自由を享受できる存在だと捉えている。貴族的な精神をもって「穏和な専制」の打破を目指そうというのが彼の主張なのだ。