啓蒙の弁証法(アドルノ・ホルクハイマー)

彼らは一般に全体主義批判であるが、主な主張としては

「理性は暴力の道具に成り果てた」ということである。

 

ナチスは不合理な目標を掲げながらも、非常に効率的な強制収容所システムを構築し大量虐殺を行った。これを可能にした”理性”は近代が求めていたものなのか?啓蒙により獲得を目指したものなのか?ただの道具的理性を生み出したにすぎないのでは?

といった疑問を投げかける。

 

これは大量殺戮を目的とした原子力爆弾などにも当てはまることだろう。

理性を盲目的に善とし、画一的な内容を押し付けるだけの義務教育も、結果的に日本的理性なるものを自明なものと考えさせる効果を持つのかもすれない。

 

このように近代社会における合理化、画一化が極めて普遍的な現象であることを強調したのだ。

 

また、神話はすでに啓蒙であったとした。

オデゥッセイアを読んでも、人間に理性を持つことを要求するような内容が記述されているのだ。

そして、啓蒙過程がもたらしたのは、自分の目的のために自然やほかの人間たちを道具として酷使する「道具的理性」にすぎないと批判した。

 

近代が直面する、労働者と資本家の対立、それを支える政治権力、そして自然界からの収奪などは、いずれもこうした「道具的理性」の帰結だというのだ。

 

カントの言うような理性によって欲望を制御し、道徳的主体を確立することと、性と快楽を徹底的に追求することは一見真逆に見えるが、ホルクハイマーによれば、表裏の関係である。

 

いずれも自己をある目的(道徳法則、快楽主義)を追求する道具として近代個人は用いるにすぎないのだ。

 

そして彼らの近代批判は、彼らを追い詰めたナチス政権に対してのみならず、アメリカの現代大衆社会に対しても向いた。映画などの大衆文化は芸術の均質化をもたらし、人間の画一化、主体性の喪失をもたらしたというのだ。

 

このように均質化した個人は、自律的主体性を奪われるが、一方で、様々な行動の主体として社会で行動するようになる。そして、殺人行為であっても、アイヒマンのように、無意識的に行うのだと結論付けた。