フランス革命の省察(エドモント=バーク)

保守主義の生みの親、バークの著作を読んだ。

 

彼の凄いところは、フランス革命の後、ジャコバン派による独裁や共和制の崩壊を予想したところだ。

 

「偏見」を重視し、合理主義や人間の理性を頼りないものだとした反啓蒙主義者であり、この考え方は近代に蔓延する啓蒙に侵された理性絶対主義者の私にとってはとても新鮮な考え方であった。

 

フランス革命批判について、彼の主張を簡単に述べると

国家の支配権力、つまり政府はゼロから作り出すことはできない。社会契約などの合理主義によって実現するものではないという主張だ。

 

王や貴族の特権を維持することは偏見であり、世襲財産が認められるのも偏見だとし、歴史的に受け継がれてきたものには、なにかしたうまくやっていく秘訣?が組み込まれているに違いない、というのだ。

さらに、「権利」は歴史の中で形成されてきたものであり、生活の中に慣習として組み込まれたもので、抽象的な権利など存在しないという。

そして、フランス革命の誤りは、抽象的で普遍的な人間の権利を定めた点にあり、あるのは具体的に生活の中で育まれてきた「イギリス人の権利」や「フランス人の権利」だけだという。

これはある種フーコーとも似ている部分があると思う。「神の死」により「人間の死」を予想したが、知、権力、主体は相互依存関係にあり、それぞれの普遍的で絶対の真理、本質は存在しないと主張した。かなり社会学的なアプローチなのかな?

 

権利や自の観念は自然の権利としてあらかじめ人間に与えられたものではなく、イギリスの歴史の中で獲得され、定義され、保護され、ほとんど習慣となって受け継がれてきたということだ。

 

合理的なもの>>>先人の経験

の傾向にある現代人は時折バークの思想に立ち返るべきだと思う。(とくにベンチャー企業とか)

科学合理主義に傾倒する現代人は、改革自体が自己目的化していることがないだろうか?

受け継がれてきたものにはそれなりの理由や背景があるはずだ。

 

決してそれは合理的とは言えないかもしれない。

しかし、歴史的に人間が慣習としてきたものであることには違いない。

改革せず、現行に満足して浸るのは怠慢だと思う。

だが、科学合理主義のもとで、何かおかしいぞ、本質はどこにあるのか、と思うような瞬間があれば、バークの思想を思う出したいと思った。

西洋近代を問い直す(佐伯啓思)

半年前に読んだものをもう一度読み返した。

 

サブタイトルは「人間は進歩してきたのか」

 

痺れますね。

 

科学技術や市場経済の発展で、物質的には豊かになった現代社会において、本当に精神的に我々は進歩してきたのか?というのは私が普段から感じている疑問である。

 

こう感じるようになったのは何時ごろからであろうか?

13歳でモンゴルに行ったとき、11歳の遊牧民の子たちが羊を100匹ぐらいを馬に乗って先導していたのに、私は衝撃を受けた。

年下にも関わらず、颯爽と草原を駆け抜け、仕事をしている彼らがすごくかっこよく、自由に思えた。

毎日決まった時間に起きて、学校で授業を受け、友達とゲームをして寝る。

そんな日本の「普通」の中学生生活を送っていた私の目には、彼らの生活はとても魅力的に。映ったのだ。

 

毎日朝から晩まであくせく働く日本人は本当に幸せなのだろうか?

決まった時間に学校に行き、何時間も授業を強いる義務教育は正しいのだろうか?

 

こうした経験を経て、次第に私は「文明は我々を進歩させたのか?」という疑問を抱くようになった。

 

佐伯先生の今回の「人間は進歩してきたのか」という問いは日頃こうした疑問を抱いていた私と重なる部分を感じ、手に取った。

 

文明がもたらした多くの問題、例えばグローバル経済危機、国際関係に翻弄される環境問題、生の意味が希薄化して衝動的な犯罪に走る少年事件、AI台頭による人間の職の減少など。。

これらの問題を生み出している根底にあるものは何なのか?

 

この問いに対して著者は

「これらの問題には基本的に共通性があり、それは、我々が我々の生や生活の枠組に対して確かな意味づけが出来なくなっている」ということだ、としている。

 

思想的、歴史的な展望を持って、ある「視座」を捉えることこそが大切なのだ。

 

「自由」と「秩序」の観念を巡る争いの中で格闘を続けた近代の偉大な思想家を読み解くことで、現代文明の本質を探ろうという試みは非常に興味深かった。

 

 

 

 

 

文明論之概略(福沢諭吉)

 

明治を代表する思想家、福沢諭吉さんの本を読みました。

彼の著作は高校生の時に学問のすすめを読んで以来二冊目。

 

最近の私の関心は、

「近代は何処からきて、どこに向かうのか」

「我々の住む資本主義社会はどこに向かうのか」

「西洋近代文明やグローバリゼーションにどう向き合えばよいのか」

「経済成長や成長主義をどうして我々は目指すのか」

 

こんな感じである。

これらの問いに対して自分なりの答えを出さない限り、就職活動において、適切な場所を選ぶことは不可能だろう。

 

本著書で福沢諭吉は、「文明と独立」をテーマに何を考え、どのような指針を社会に対して示したのか。を

さらば、資本主義(佐伯啓思)

大学の恩師である佐伯先生の著作はこれで6冊目になるだろうか。

 

どの著作も共通してテーマは「近代西洋社会への懐疑と警鐘」である。

 

今回の著作も、主論としては、

科学と技術の革新によって富を生み出し、無限に幸福を追求するという近代社会の価値を見直すべきだ。

そして、この経済成長と物質的豊かさを追求し、「資本」を金融市場にバラまいて成長を目指す「資本主義」はもう限界なのではないか。

したがって、脱成長主義社会を受け入れ、政治的な安定を求める時代が将来的にやってくるだろう、というものだ。

 

こうした主張は現在ITベンチャーを中心に就職活動を行う私には大きく突き刺さるものがある。

果たして、人間の便利さを追求するために技術革新を推し進め、市場競争に勝つために時間と労力を捧ぐのは果たして正しいのだろうか?

自分の人生を掛けてやるに値する仕事なのだろうか?

それが自分や周りの人にとって幸せをもたらすのか?

 

 

そういった疑問や不安を抱かざるを得ない。

 

より安く、より早く、より便利に、という欲望に突き動かされて、ますます経済の拡張に走り、我々はかつてなく忙しく働き、激しい競争に駆り立てられている。

このことは人間の心理や社会の在り方に、ある種の歪を生み出すだろう。

人の幸福が仮に物質的な側面と精神的な側面に区別できるとするならば、物質的な側面への過度の傾斜が、精神的な側面の破損をもたらすのではないか、ということである。

しかし、我々はこの状況を直視できていない。

なぜなら、物的な側面はGDPや成長率により数値化できる。一方、精神的な側面は、全く測定もできず、数値化できないからだ。

 最近では電通の過労死などが社会問題として取沙汰されている。

どうしてこの豊かな日本社会で、こうも人間はあくせく働かねばならないのか?

これ以上物的な豊かさを追求する必要があるのだろうか。

 

 

戦後日本が急激に経済成長を遂げることができたのは、あくまで焼け野原の状態からのスタートであったからで、豊かな今とは完全に異なる状況にあった。

今の社会で、当時のような経済成長を求めること自体おかしいし、このまま成長主義を志向したところで日本人が幸せな生活を送れるとは私は思わない。

 

ただ、そうした「成長主義」「資本主義」「民主主義」に代わるなにか、を提示することはできないし、今後日本がどこへ向かうのか私には想像もできない。

 

しかし、確実に言えるのは、近い将来、これらのイデオロギーを体現し志向する資本主義社会に何かしらの綻びが生じ、立ち返るタイミングが来るだろう。

 

歴史を顧み、将来の社会像やよき生を構想する不断の努力が求められると強く感じた。

 

ガイアックスの社長の講演内容も振り返って、この課題、問いに対してじっくりと向き合いたい。

 

 

 

 

 

ブログ開設

大学に入ってからいろんな本を読んできたものの、なかなか消化できていなかったなという反省があり、このたびは読書記録としてブログを開設しました。

 

自分の表現力、伝える力を伸ばすためにも、定期的に更新できればと思います。